熊本名物「太平燕」のツール

紅蘭亭今昔物語は少しずつ更新されていきます。語り部から紡ぎ出すように少しずつ。ある一族の私的な話しから華僑全体、 人間の海を越える力そのものまで 思いを馳せていただけたら幸いです。 語り部は紅蘭亭と同い年の1934年生まれの生き証人、泰山先生です。

20世紀前半に中国より渡来した華僑が作り上げた熊本土着の中国料理

ときは昭和20年であった、、、、
その頃の熊本はアメリカ軍の空襲で壊滅的なまでに破壊しくつされていた。 街は飢えた市民と帰還兵ばっかし。
うちのオヤジは北署の署長から直々に「みんなば腹いっぱいにさすっごつ紅蘭亭ば至急再開するごつ」頼まれた。 紅蘭亭は7月の空襲で 焼け落ちてしまっていた。新しい場所は なんとか空襲に合わずに済んだ上通町にした。 手に入る食材はカボチャしかなかった。 我々の命をささえたカボチャ。
今でもそうだが 米がいかに憧れだったことか。我々の三度の食事はカボチャだけだった。カボチャだけ。 毎日カボチャカボチャカボチャァ~っ!(取り乱さないで下さい:編集)
当時私は10歳だった。 メニューにはたったひとつ「かぼちゃ雑炊」。1円40銭。6,7切れがスープに浮いと るだけ。これが売れた売れた。
私の父は31歳。 年端もいかぬ見習いコックがビールケースの上に立ってカボチャをぶった切っていたのを よく覚えている。小さかったのでまな板に届かなかったのだ。彼は当時13歳、後のチーフ 宮村さんであった。

20世紀前半に中国より渡来した華僑が作り上げた熊本土着の中国料理

1934年の紅蘭亭。
オープンしたての外観は浦島太郎を迎えた竜宮城を模してつくられた。帳場と調理場の間にはワイヤーが張ら れ、そのワイヤーと使って注文伝票をクリップで挟んで5,6メートル先の取り場に渡していた。子供の私に とって見ていて飽きない光景だった。通りに面した調理場の東側はバルコニーのようになっていて調理人達が 仕込みをそこでしていた。
そう、東側のその道は現在の栄通りであり、20段かそこらの階段の下にあった。丘のようになっていたのだ。 その丘は第二次大戦後の市街地区画調整で平らにならされてしまって今では全くわからない。
紅蘭亭の真ん前は東本願寺があった。近所の子供達はそこの庭になる鈴なりのイチジクが楽しみだった。
そこの角には傘の販売をしていたマツフジという店があった。

小学校の教室。一人の少年に対して全員が起立して拍手をしていた。なぜならばその少年の弁当が白米と真ん中に梅干し一個、いわゆる日の丸弁当だったからだ。質素で愛国心に富んでいる、この子を見ならえ、ということだ。  
やがてその米も貴重なものとなり見なくなった。 1945年、七月。熊本はアメリカ軍の空襲で大打撃を受け、街の大半は破壊され炎で焼かれた。 私達は疎開先の江津湖近くから残骸を見に戻った。 サイダー瓶の首が熱で折れ曲がっていた。五校の学生が「希望を失ってはいけない」などと演説していたのを覚えている。 炊き出しが行われた。おにぎりと太刀魚を焼いたものだった。  
今でも太刀魚が食卓に上ると必ずその特別な日のことを思い出さずにはおれない。食べ物の記憶は恐い。かぼちゃもしかり、五十年後でもこのかぼちゃ恐怖症を克服できるかどうか疑問である。